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cetegory : - - --
2016年12月27日(火)  by スポンサードリンク [ Edit ]
風邪をひいたようで、先週からなんとなく不調だったのだけれど、一昨日は咳がひどくなったので、一日中ごろごろして、生徒さんから借りた「杖と翼」(木原敏江 小学館文庫)を読んでいた。フランス革命後の恐怖政治時代を舞台にした漫画。マリー・アントワネットが「パンがなければお菓子(ブリオッシュ)を食べればいいのに」と言ったという間違ったエピソードが使われていたけれど、なかなか面白い。

(実際は、三流新聞(かわら版)によるマリー・アントワネットの「つるし上げ」の中で、あることないこと書かれまくった中のネタのひとつ。本当は王妃のとりまきの貴族のひとりが言ったらしい。)


前期の授業が山場を迎えていた頃、提出課題を添削していた時、2人の学生が偶然同じことを書いていたのを発見して、もやもやした。

「Je n'aime pas la lecture. (読書が嫌いです。)」

まあ、好みについて書くという課題だったから適当に書いたのかもしれないけれど、心にちらとでも思わないことを書けるはずはないので、そういう心持ちがあるのだろう。

これと同じことが、ナント大学にいた時にもあった。語学学校のカリキュラムを卒業して、学部の方に入ろうとしている人に、なんでその学部を選んだの?と聞いたら、上記の学生と同じ答えが返ってきた。本を読むのが嫌いだから、私のいる文学部なんかはちょっとね、と。

そのときのわたしは、現文学科300人のフランス人学生の中でたった一人の外国人学生として、ほとんどの科目で落ちこぼれていたため、余裕のよっちゃんというものがナッシングで、トゲトゲしていた(そうやって尖っていなければ、つぶれそうだった)から、「読書が嫌い」と当たり前のように言う友人に対して反発のような、軽蔑のような、やりきれない違和感を感じた、というのを思い出した。

その時も、今も、なんで読書が嫌いだという人に対して、こういうもやもやした気持ちになるのだろう。

例えば、彼らが「イグアナが嫌い」とか「コーヒーが嫌い」とか「あたりめが嫌い」とか言うのに、同じような感情は湧かない。単にごく個人的な好みを言っているだけだから、こちらは「あ、そうですか。」と挨拶して、その人に対しては、あたりめをかじりながらイグアナを連れて「コーヒーでもどう?」とかうっかり誘わないように気をつけるだけだ。

でも、それを言ったら「読書」だって「音楽」とか「スポーツ」とか「登山」などの個人的な趣味の問題なのだから、なにもわたしが感情を害する必要なんか全くないのに。

ところで、小学生の時からの習慣で、わたしは本を常に3〜4冊同時に読んでいる。右目で一冊、左目でもう一冊、額の目で三冊目、余裕があれば背中の目で四冊目。

・・・今、数えたら7冊だった。あと、どこの目を使おう(まだ言うか)。

(① 村上春樹のインタビュー集(今頃) ② 町田康「この世のメドレー」③ Tracy Chevalier 「La jeune fille à la perle」④ 「イメージの文学史」シリーズから「動物の謝肉祭(澁澤龍彦 監修)」⑤ 高田渡「バーボン・ストリート・ブルース」⑥ 那州雪絵「ここはグリーン・ウッド(白水社文庫版)」⑦ 「世界は分けてもわからない」福岡伸一 ・・・読書が好きというより単に欲張りな性格が露呈。)

外出する時に本を携帯するのを忘れたりしたら、心の支えを失って挙動不審になり、出先で一冊買ってしまう。上記の彼らからすれば、わたしなんかは理解不能というか、もう完全なるど変態だね。

そうか。自分の「好き」なものを否定されて、さびしいのかもしれない。わかってもらえなくて、かなしいという気持ちが、相容れないことを言うひとに対する一種の「攻撃」として、イライラしたり、軽蔑したりする形になって現れているのかもしれない。


それにしても、読書嫌いで学生をやるってのは、物凄く大変なのではなかろうか。どの学部でも教科書やら資料やらを読まされない日はないし、基本的に読むのが嫌いなのでは、勉強もはかどらないだろう。

いやいや、雑誌や漫画は読むし、ネットでニュースや友達や芸能人のブログを読んだりもするよ。と、言われるかもしれないが、その「読む」力と「読書」力とは、全然動かす「筋肉」が違うのだと思う。

ネットで読める日本語のニュースや、雑誌や、このブログのような一般的な「日記」ブログや、ハウツー本は、ほとんど頭を使わないで読める。高度なレトリックを使って書かれているわけではないし、事実を分かり易く書いている。1次元あるいは2次元的読解で済む。
ニュースになっている出来事には、テレビのコメンテーターやニュースにコメントする無数の匿名の人たちのそれらしい意見が溢れている。漫画には、頭を使わないと読めないような作品もあるけれど、美しい絵が補ってくれる分、こちらの想像力を使わなくていい。

ただ、口を開いて待っていると、よく噛み砕かれて流動食のようになった情報が勝手に流れ込んで行ってくれる。だから、噛んだりする必要なし。メディア・リテラシーってのがあるラシーけど、もうあごが退化しちゃったから、それ、噛めねーよ。ふがふが。


村上春樹がこんなことを言っている。

ただ若い人々には多くの場合、「チェッキング・システム」のようなものがまだ具わっていません。ある見解や行動が、客観的に見て正しいか正しくないかを査定するシステムが、彼らの中で定まっていないのです。そういう「査定基準」みたいなものを彼らに与えるのは、我々小説家のひとつの役目ではないかと僕は考えています。もしその物語が正しいものであれば、それは読者にものごとを判断するためのひとつのシステムを与えることが出来ると僕は考えます。何が間違っていて、何が間違っていないかを認識するシステム。僕は思うんだけど、物語を体験するというのは、他人の靴に足を入れることです。世界には無数の異なった形やサイズの靴があります。そしてその靴に足を入れることによって、あなたは別の誰かの目を通して世界を見ることになる。そのように良き物語を通して、真剣な物語を通して、あなたは世界の中にある何かを徐々に学んで行くことになります。
村上春樹 著「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2009」p.19-20 2010年 文芸春秋


これって、読書だけではなくって、自分にとって未知のあらゆる活動が「他人の靴に足を入れること」なんだろう。
語学は「育ってきたものとは違うシステム」で考え、理解し、表現する、それこそ「他人の靴」に足を突っ込むだけではなくて、それで歩いたり走ったり踊ったりしなくちゃならない。履き慣れないからよく転ぶし、余計な飾りがついていたりすると腹もたつ。けれど、それを履いている時にしか見えない風景があるから、我慢してならして、だんだん自分の足に馴染ませて行く。

読む力というのは鍛えれば鍛えるほど、次元が広がって行く。物語が、言葉が、3次元、4次元に広がって行く。その風景は、毎日地味に言葉を掘り起こして、「どういうことだろう?」「この意見はほんとうなんだろうか?」「自分はどう意見を述べればいいだろうか」と深く穴を掘って行く、ことばを何度も噛んで確かめることで、だんだん見えてくる。今まで地べたにいたから見えなかった地上絵のような文の骨組みも、ぐんと上空から眺めて、見抜くことが出来るようになる。

今、起こっていることに対して、様々な人が様々な意見を言っている。教育は盛んに「規格からはみ出してはいけません。でも個性的な意見が言えるようになりなさい」と矛盾したことを言って急き立てる。一見すると論理的なことを言っているような気にさせる話術が上手な人にばかり、スポットが当たっている。なんでこんなにうじゃうじゃと溢れているのかというと、人の意見を1次元的にしか理解できない人が増えているからだと思う。だから、3次元・4次元的広がりのある文脈でメッセージを放っている人の意見も、自分が見えている平面しか見えないから、「お前の言っていることは間違っている、頭おかしい」と噛み付く。見えないから、かなしくて、怖くて、噛み付く。だから、それよりちょい複雑な2次元的メッセージを大きい声で怒鳴っている人に「この人の言うことは、すごい。」と騙される。

今現在のわたしたちの世界に本当に必要なのは、「理解する力」「聞き取り、読み取る力」なのだと思う。力がある人は、薄っぺらい論理を見抜くことができるし、そもそもそういう詭弁を発信してもすぐ見破られるから、ミオップな(近視眼的な)意見を言ったりできなくなる。

読書好きという個人的な嗜好を押しつけるのではなく、「本を読むのが嫌い」という人が増えていることに、とても危機感を感じて書いてしまいました。語学の観点から、よく読んでいる人は綴りを間違えない、とか、語彙が豊富になる、とか、具体的な効能についての話しもありますが、それはまたいずれ。
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2012年08月24日(金) 11:04 by まり [ Edit ]



こちらに移動しました→http://diurnalem.ec0r.com/expression01
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2011年09月07日(水) 10:56 by まり [ Edit ]
GWにぷらぷらしていたのでバチがあたったらしく、口唇ヘルペスに感染してしまった。

どくだみ先生の所に駆け込んだら、抗ウィルス薬と漢方薬を処方され、更に「針をやる」というので、鍼灸だと思いきや、長さ2ミリ程の針を両手の甲親指と人差し指の間それぞれと、首と口元に刺されて上から思いっきりテーピングする。

「あのー・・・これはいつまで刺さったままなんでしょうか・・・」
「うーん、ま、金曜日位までだな」

そんなわけで、大学では首をねじる度に刺さっている針が微妙に刺さって(日本語がおかしいですが、他に表現しようがない)板書の度に「アタタ」と言いながら授業をするというていたらくだった。

せっかく抜き打ち小テスト(といっても、短期の暗記でどれくらい記憶が抜け落ちているのかを実体験してもらうためで、成績には関係ない)をやろうと思っていたのに、でっかいマスクをかけていると愛嬌が70%位落ちてしまい、そんな姿で「抜き打ち〜」などと言えば学生からは恨まれ、名前を書いた人形に針をさされてしまったりしたらたまらんと敢えなく断念。生徒達は「我、まさに脳細胞活性化中なり」と言わんばかりに「Je suis japonais」などと覚えたフレーズをいそいそと唱えてくれたので、信用することにする。


そんな状態で、駐日フランス領事のマルタン氏が来られて講演をするのでその通訳をしてくれと頼まれる。

通常は、講演の通訳って事前に原稿が来るものだと思うのだけれど(と、考えるのは甘いか)、当日ぎりぎりまで待っても原稿は届かず、結局事前のブリーフィングのみの同時通訳状態で行わなければならないことに。しかもテーマは原発・・・

しかし、マルタン領事はその物腰の柔らかさ、丁寧さが本当に温かく、威厳がありながらちっとも威張っていないという良い印象・思い出しかないし、連日地震関連で疲れもピーク、体調も思わしくない中新潟・仙台を訪問というので、こんな地方の(というと失礼だが、まあいいや理事だからあえて言おう)小さな協会の為に講演をしてくれるのだからわがままは言えない。

仕方なく、ざっと原発関連のニュースやら専門用語やらを集めて予習したものの、不安は残る。

当日待ち合わせの場所へ向かうと、領事はにこやかに

「Ah, mademoiselle, je suis très heureux de vous revoir ! (ああ、あなたにまたお会いできて嬉しいですよ)」

と手を差し出して下さり、「えー、以前お会いしたことがありまして」などと説明を考えていたので拍子抜けしたのと、覚えて下さったことに嬉しくなってしまい、咄嗟に言葉が消えて口の中でもごもごと挨拶をするだけになってしまった。ロスト・イン・トランスレーション。違うか。

考えてみれば、会って早々「領事はご結婚されていますか」などとうっかり勘違いして尋ねるようなまぬけな通訳は他にはいないだろうから、あるいは印象に残っていたのかもしれない。

しばらく会長・事務局長とのやりとりを通訳し(この辺りは快調だったのだが、振り返ってみるとここらへんが既に能力のピークだった)、その後講演の打ち合わせを行う。

ここで、悪い予感が当たった。

「僕の持ち時間は40分くらいだから、半分講演にして、あとは質問コーナーにするよ。質疑応答の方がやり易いから好きなんだ。」

やはり・・・

通訳にとってこの質疑応答ほどやっかいなものはない。

台本なしの不安というより、こういう時手を挙げる質問者というのは、国籍問わず、大概「質問」と「感想」の区別がついていない方だったりする。それに、人前で意見を述べる時というのは只でさえ緊張したり興奮したりして普段よりも伝わりにくく、本人は「いってやった!」感に恍惚となって着席するが、通訳はその感情のほとばしりの中から適当な文脈を抽出(というより、ほぼイタコ的能力で察知)して的確な質問をこさえなければならない。しかも、今回のテーマはとても微妙で難しい「原発」。

と、そこへフランス人G氏がかなりラフな様子で登場。話の流れから、彼が質疑の日仏訳をしてくれることになった。私は応答の仏日訳をすればよい。あ〜だいぶ気が軽くなった。

「で、今日のテーマってなんなの?」
「原発。」
「・・・・。」

今更やめたとは言わさんぞよ。

領事はスピーチで使う用語や話題を教えてくれ、現場で私があたふたしないように最大限の配慮をして下さった。

のですが・・・

会場設備は講演者のことを何も考えていないのか、ステージには「漫才お願いします」と言わんばかりにマイクがいっぽん無機質に突っ立っている。領事はステージに乗ったものの困惑。あわてて講演用のテーブルやらマイクやらを用意してもらい、通訳用のマイクと、用途不明かつ中途半端な高さのテーブルをがたごとと設置している途中で領事はスピーチを始められ、完全に乗り遅れた頭は空っぽになってしまった。

その後も、ちょっと気を緩ませるとぼんやりしてしまい、領事に発言を繰り返してもらうという、相手がこの方でなければ多分大目玉を喰らうであろうそれは酷い出来でした。

「実際に始まると、力(本来持っている仏語力・日本語力)はがくーんと落ちるからね」

というG氏の呪いの言葉(!)が甦る・・・。

おっしゃる通りでございます。


だいたい、米原万里の著書を読んで以来、気を使い過ぎて早死にするに違いない(という思い込み)から通訳にはぜったいなりたくないと思ってたんだい。得意げに下ネタや親父ギャグや差別発言を繰り返すクライアント(※領事は当てはまらない)に殺意を抱く位、心身を摩耗する大変な職業なんだって。

などという言い訳が心の中で泡のようにふつふつ沸き上がって来る中で、ツギハギ通訳は終了。いよいよ恐怖の質疑応答タイム。

司会が指名した女性がマイクを手に発言を始めるのと同時に、ステージに一番近い席に座っている男性がやおら語り始め、かぶっていることに気が付かない。Ca commence bien...(ハジマッタ・・・[先が思いやられる])と戸惑っていると、マイクで話していた女性が、気を利かせて男性に「先に質問されますか」と親切にマイクを持って来てくださり、一同ほっとする。男性は身振りを加える度に空いている右手を使わずマイクを持った左手を勢い良く動かすので、その度にF1レースの物まねのように声が遠くへ消えてしまう。もう、わたしは何に集中していいかわからなくなってしまい、ああ、「Verba volant scripta manent (ウエルバ・ウォラント・スクリプタ・マネント、ことばは飛び去る、書かれた文字は残る)」と言った古代ローマのひとは偉いなぁなどとふわふわ考えていた。

ここで登場のG氏は、質問者のおっそろしく長い発言を猛烈なスピードで領事に耳打ちし、領事はうんうんとうなずくと的確な返答をする。G氏の説明は聞こえないが、領事の返答から非常に素晴らしい要約をしているのだというのがわかる。これだよな。この能力こそが、語学で磨かれる力だよ。この力が欲しい・・・欲しいが通訳で早死にする(と、決めてかかっている)のは嫌だ。

今回「仕事」で受けたのではなくてよかった。だからといって手抜きはしていないが、経験不足は否めない。

どくだみ先生からは「なるべく少食にして、脂っこいものはだめ」と釘を刺されているのを幸いにディナーを辞退し帰宅。

ちょっと修練を積んでいい気になっている時、くいくいと伸びたその鼻をへし折るのに通訳というのはとてもよい仕事だ。


今回の通訳で参考にした原発関連のURL :
OVNI「フランス全国の19カ所に原子力発電所」: http://www.ilyfunet.com/actualites/on-en-parle/695_centre.html
Wikipédia.fr「ANS」 : http://fr.wikipedia.org/wiki/Autorité_de_sûreté_nucléaire
IRSN「Accident de Fukushima-Daiichi Bulletin d’information n° 5 du 29 avril 2011」:
http://www.irsn.fr/FR/Actualites_presse/Actualites/Documents/IRSN_Residents-Japon_Bulletin5_29042011.pdf
Le Monde「Japon」: http://www.lemonde.fr/japon/
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2011年05月13日(金) 15:26 by まり [ Edit ]
東大ボールペン ノックアウト。


気がつけば弥生。

・・・歌の文句みたいですが。

大概の方には、「フランス語で日記を書くなんて面倒なことを持ち出して、2回で挫折して逃げた」と思われているかと思いますが、様々な言い訳を総括するとそういうことになるやもしれません。

翻訳の仕事で、倒けつ転びつたのしくふらんすごとたわむれていました。
その後は赤ペンを握り締めていました。
何故かわがVAIO君搭載のIMEは「採点」を一発で変換したがらず「彩店」になるので、その度に(これも「その旅」になる)「あふー」とか「ぷふー」とか怒りを噴射していました。
いまだにFacebookのお誘いに乗れずにいながら「ソーシャルネットワーク」を見に行ったりしていました。

その間に日本語やフランス語で下書きはいくつか書いていたのですが、例えば

「ジュゲムの投稿ページに『結婚力診断』というバナーが貼ってあり、大きく『嫁さん、欲しいな・・・』と書いてある。それを見て、『おれも、ほしい。』と毎度思っている(←女)。」

などと書いてしまった後、「おれ」をどうやってフランス語で表現したらいいのか苦悩したりしていました。(翻訳にありがちな悩み)
普通に言うと、忙しかったです。


実は、今までの二ヶ国語日記は、まずフランス語で書いてそれを日本語に訳していたので、仏語部としてはとりあえず達成感があったものの、日本語部が微妙な消化不良に燻っていました。

今後の方向性をあまりにも考えすぎていたのか、今日は「あご」についてドイツ人の友達と語り合いたいのだけれど、あらゆる言語の「あご」という言葉を度忘れして「しゃくれ」とか「阿藤快」とかの派生語(!)でどうにか意思疎通を図ろうとしている夢を見てしまいました。夢のクライマックスでは三日月人間が出てきて、その尖ったあごで校庭にドッヂボールのラインを引いていました。


さて(と、どうしようもない導入部を丸投げ)。e-cor(エコール)フランス語コミュニケーション教室では、最近「自己紹介」を考え直すという授業をやっています。

自己紹介というと、教壇の前などで「初めまして。・・・と申します!趣味はサッカーと映画鑑賞です!好きな食べ物は焼肉です!嫌いな動物はカピバラです!」といった風景を想像しがちですが、自己紹介の場面は大きく分けて2種類あると思います。ひとつはある程度の人数の前での改まった自己紹介。もうひとつは、個々や少人数グループでプライベートに仲良くなる時。これからそういう季節ですね。

どちらも、自分がどういう人間であるかというのをわかりやすく周知するという目的は一緒ですが、方法はかなり違うと思います。一対一で「嫌いな動物はカピバラです!」と宣言されたら微妙な空気になることもあるわけです(たまたま相手も同じ嗜好を持っていれば盛り上がるかもしれませんが)。

一般的に大人は、シチュエーションによって相手に好印象を与えられるように距離や、話し方を変えています。学生から社会人になる間に、適した会話レベルの選択ができずに目上の立場の人にタメ口を効いてボカンとやられたりして学んでいくものです。

そこで、名前、出身地、職業、趣味(スポーツ、鑑賞系、ハンドメイド系、学習系、旅行・・・)についてフランス語で説明したり、相手に聞いたりする基本をおさらいしながら、コミュニケーション編では、これだけの情報を相手に怪しまれたりうざがられたりせず、「気分よくやりとりする方法」「好印象を残せる方法」「インパクトを与える方法」について考えていきます。

そうそう、誤解されている方が多いのですが、「初めまして」に当たるフランス語の「enchanté(e)」は、握手の時や名乗った後に言う言葉です。日本語の順に「初めまして、○×と申します。」のつもりで「Enchanté(e), je m'appelle...」とやるのはヘン。
これは、もともと「Je suis enchanté(e) de faire votre connaissance (あなたとお知り合いになれたことをとても嬉しく思っています)」という意味の略語なので、名乗った後に言う言葉なのです。


「わたしは・・・が好きで、普段は・・・してて」とリストアップするのは、場合によって幼稚な印象になったり、自己中心で付き合い辛いと思われてしまうこともあります。逆に、「お名前は?」「お仕事は?」「ご趣味は?」とやれば、一昔のお見合いみたいになってしまいます。自分と相手とのバランスが難しい。

また、大人になると面と向かって聞きづらいことや、具体的に言うのが憚れることなども出てくるわけです。

年齢
配偶者・子供ありなし
住んでいる場所

そういう時の失礼にならない尋ね方や、聞かれた時のさりげないはぐらかし方についても、フランス語で学びます。

これらの個人対個人の自己紹介法を踏まえて、最終的には多人数の前での自己紹介の仕方について応用します。自己紹介の隠れた目的は「なるべく早く顔と名前を覚えてもらう」というものです。そのために自分らしいインパクトを残すにはどうしたらいいか?ということについても試行錯誤します。

「ウケる」自己紹介方法についてのノウハウ(savoir-faire)ということではありません。普段からトークでウケる自信がないタイプが、素でウケている人の真似をしたところで違和感や痛々しさが残るだけです。そうではなくて、誠実に「自分らしさ」が出せればそれでいいわけで、自分の「ウリ」ってなんなのかな?自分で「嫌だなぁ」って思っているのはどんなところ?というのに目を向けてみようということです。

とはいえ、相手について聞き出すにはコミュニケーションの鉄板とも言える「心得」があるわけです。日本語でももちろん応用できるのです。

フランス語学習というと、もうその世界だけに留めて限定してしまうことが多いのですが、語学ってそういうもんではないと思うのです。日常生活に使ってナンボ。せっかくお金を払っているのですから、日々に生かして下さい。

その人の「ヒトトナリ」「センス」って、その人の言葉をふんわり包んで「香って」来るものです。言葉なしでも伝わってしまう怖いものでもあります。

最近唸った「センス」が、冒頭の写真。ナビ君ママがお土産にくれた「東大ボールペン」。駒場キャンパスの大学生協で「ネタ」として買ってきてくれたんだそうです。(やはり東大の銀杏マーク入りのクッキーと共に。)もう随分前から、わたしはこの方のファンなのです。


フランス語部は、「続きを読む」からどうぞ。馬鹿馬鹿しい試行錯誤の結果、次回からは日本語とは独立して書くことに。日本語の内容と同じこともあれば別のこともあります。思考が浅すぎてつまらないので、ちょこちょこいじくるでしょう。
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2011年03月01日(火) 12:28 by まり [ Edit ]
Emergence-resurgences L'Empire du "signe"


先週の金曜日に、ボルドーIII大学のジェローム・ロジェ先生が新潟大学で「声の破片ーアンリ・ミショー『アジアにおける一野蛮人』あるいは自己自身にあらがう旅」という演題で講演されたので聴きに行ってきた。わたしのような門外漢にも気軽に「いらっしゃい」とお声掛けくださるT先生、ありがとうございます。


ミショーについてたいした知識もないままぼんやりと出かけて行ったけれど、2時間に及ぶエクスポゼは面白かった。ただ本を読んでみたり、先行するイメージや先入観にとらわれているだけでは、わからないことがたくさんある。行ってなければ、わたしの中でアンリ・ミショーという作家は「アートを追求するためにヤクでキメキメになったヤバイおっさん」で終わるところだった。


フランス語で講義を聴くとつい癖でノートを取ってしまうのだが、現役の学生という立場から解放されてみると改めて「型」の凄さを感じる。

どの分野であろうと、フランス人は学生時代に徹底的にエクスポゼの「型」というものを仕込まれる。だから、人前で話す時、話すほうも聞く方も安心感がある。教育は社会で役にたつぞなもし。

まずはイントロダクションで、話すテーマについて「開く」。それからどういう順番で何を説明するのかの流れを「アナウンス」する。ここで、聞き手が「お、ちょっと面白そうだな」という「餌」をまくべし。と、耳にタコができるほど教わった。

ロジェ先生はタイトルに使った「éclat(破片)」という言葉を「声、音(弾ける声、大声)」や「目(の輝き)」の例で定義するところから始めると、

I. Voyage en inconnu (「他者」としての旅行)
II. Pédagogue de l'altérité (他者性の教育者)
III. Derrière barbare (「野蛮人」の後ろにあるもの)
IV. L'écriture d'éclats (破片のエクリチュール)

という章に分けて最後に結論を話した。

ミショーは1931年にマルセイユを出発し、インド、中国、日本、マレーシア、インドネシアなどアジアを旅行してこの作品を書くのだけれど、ただの「旅行記」というジャンルに収まり切らない「声の破片」を集めたものになっているそうだ。根底に哲学があり、文体はラ・ロシュフーコーの箴言のようだったり、ラ・フォンテーヌ「ファーブル」のようだったり、散文詩だったりして、それが最終的にはあの不思議な文字絵のようなものに繋がっていくのだとわかった。

とにかく、始まりはその頃盛んだった「気取り屋たちが書いてきた旅行記」、いわゆる白人による白人のための「オデュッセイア」としての旅行記ではない、「自己」という認識をリセットした、「誰でもない人」として世界を色眼鏡なしに見てみようという試みだった。アジア人の生活を「ま、なんて野蛮な!」という上から目線でレポートするのではなく、自分自身がアジア人から見れば「一野蛮人」なのだ、という「逆転」の認識を持ち、ニュートラルな観察眼で眺めようとした。


未知の言葉の中では一種独特の浮揚感があり、自分が透明になってしまったように感じた経験が私にもある。ミショーはそんな中で、その外国語に擦り寄るのでもなく、母国語にしがみつくのでもない表現方法を探し続ける。自分から自分をひっぺがすような「他者性」というものを探るうち、文体は三人称「彼」で語られるようになる。


彼があの独特のシナプスのような人が踊っているようなデッサンを始めるきっかけになったのが、日本でたまたま女の子と筆談ならぬ画談をしたことだった。少女はどこから来たの、とか、どんな船に乗ったの、何日ぐらいここにいるの、という質問を絵に書き、ミショーに鉛筆を渡して返事をさせる。この体験が「コミュニケーションは言葉の中にしかない」というイデオロギーからの逸脱の瞬間になった。

Né, élevé, instruit dans un milieu et une culture uniquement du "verbal" je peins pour me déconditionner.
(音声言語のみの環境、文化で、私は生を受け、育ち、学んだ。こうした条件、制約から身を剥がすために、私は絵を描くのである。)
Emergences- Résurgences, p.9

Signes pour retrouver le don des langues. La sienne au moins que, sinon soi, qui la parlera ?(言葉の恵みを再発見させるための記号。自分の言葉、少なくとも、自分でなければ、だれがこの言葉を語るのか?)
"Mouvements", in Face aux verrous, 1951 p.19


この話を聞いて思い出すのがダニエル・ペナックの文字人間。アプローチも目的も全く違うのだけれど、共に文字の向こうに自由を求めていた。

漢字はもともと表意文字だから覚え易くて、アルファベットはただの記号の羅列だから無機質で覚えにくい、などと思っていたけれど、こうしてみると文字の向こうにあるものはアルファベットも漢字も同じなんじゃないかという気がした。

Alphabets


ところで、講義室が泣く子も黙る超乾燥地帯で、水分を取り損ねたため、講義が終わる頃に顔面が鼻を中心に真っ赤に腫れ上がっていた。野蛮人さながらの形相で翌日土曜日のアトリエに向かい、参加者さんはさぞ不快だったことでしょう。ごめんなさい。今はもう、赤鼻のトナカイ位に治まっています。暗い夜道などには、ぴかぴかのおいらのハナが役に立つかもしれません。


引用部分は共にロジェ先生の講演で配られた資料によるものです。
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2010年12月14日(火) 12:14 by まり [ Edit ]
Radio france FIP@iPod touch


ipod touch 4th が届きました。


音楽にも、もちろん使いますが、主な使用はやっぱり職業柄、辞書機能になりそう。
早速、プチロワイヤル(和仏・仏和)、Larousse(仏仏辞典)、Collins(仏英・英仏)を入れました。

仏和仏と英和英・英英の入った電子辞書は5万弱で買ってここ7,8年大活躍してきたのですが、仏仏・英仏英がないのが唯一の弱点。Le petit Robertの入った電子辞書を新たに買うかどうか3年程悩んでいました。

プチロワは6,000円と少々値が張りますが、Larousseなんて600円です。気が抜ける値段。


もうひとつうれしかったのは、無料でRadio Franceのチャンネルが全部聞けてしまうアプリがあったこと。
世界のインターネットラジオを聴けるものもダウンロードしました。

もともと付いている機能に、googleマップがあってこれも便利至極です。バルト三国の順番がわからなくなったりした時などに。そういえば、生徒さんがパリのメトロマップのアプリを使っていましたっけ。そういうのもどんどん入れられる。


あー、授業用にやっぱりiPad欲しい・・・。

語学にも便利な世の中になりましたなぁ。



と、IT革命万歳ではあるのですが、紙の辞書は必要だと思っています。特に初心者〜中級までは。

あれって、ページをめくって単語を調べているというその行為が記憶につながっているそうなんです。だから、単語のストックがあまりない状態で電子辞書系を使ってしまうと、記憶に残らないから簡単に忘れてしまう。

初心者に辞書を引いてもらうと、ものすごく時間がかかります。まだ頭の中にアルファベットの羅列パターンが殆どないので、辞書に当たりをつけて引くことができません。だから、進んだり戻ったりしてやっと目的のところにたどり着きます。けれど、ページを繰る手の筋肉の動きや、単語を追う目の動きなど全てが記憶されて、それが回数を追う毎に整理されて短い時間で到達できるようになるのだと思います。身体で覚える、ってこと。実際にその時の手の動きなんかは意識として覚えてはいないけれど、脳の記憶媒体にはそういうことも含めてトータルで記憶されるんじゃないかと思います。

その辺を一切省いていきなり電子辞書を使ってしまうと、辞書が親切に当たりをつけてくれたリストから選ぶだけでいいので、身体は殆ど動かさずに済みます。「当たりをつける」ということも、回数こなしてだんだん先が読めるようになるわけだから、語学的勘のようなものも培うことができなくなってしまいます。自主的に作り出した記憶する手がかりのようなものが少ないから、思い出す時のとっかかりも少なく定着しにくくなるのじゃないでしょうか。



・・・とはいえ、クリックするだけで活用や発音までスイスイ出てくる辞書アプリは機能としてはすごいです。


すごいと言えば、このプチロワアプリをものめずらしそうにいじくっていたナビ君が、活用の発音を一回聞いただけで完璧にコピーして口に出したのには驚きました。

しかも、r の発音だらけで日本人を悩ませる「rire(笑う)」の未来形・・・うぬぬ。普段から耳を鍛えているだけあるな・・・


ところで、絶対音感があるからといって発音も上手にできるとは限りません。

例えば、フランス語を話すフランス語ネイティブでない音楽家が、全員美しい発音で話すかというと、そうではないです。正確に聞き取る能力と、それを正確に発音する能力はまた別物なんだよなぁ。

ちょっとフランス語やってみたら?と言うと、ナビ君は

「習うのは恥ずかしいから、やるとしたらこのアプリでムッツリ学習※する」と言っていました。

『タッチでムッツリ学習』・・・


※ムッツリ学習:ひっそり篭り、CDやビデオなどでこっそり独学すること。だと思う。
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2010年09月20日(月) 23:23 by まり [ Edit ]
gobusata de gozai masu.


予測はしていたんですが相変わらず甘い予測の仕方でした。
なんなんでしょうか、この雪だるま式の忙しさ・・・


そんな中、月曜日に新潟大学・19世紀学学会共催ミニシンポジウム「ヨーロッパ・半島・日本:新しい『文化学』の構築を目指して」を聴きに行ってまいりました。

パリのINALCO(フランス国立東洋語学文化大学)からパスカル・グリゴレ先生が来られて日本の大衆演劇について語られるというので、楽しみにしていました。

フランス人の先生から見た日本の旅芝居をする人たちのお話、日本各地の大衆演劇場についてのお話は本当に面白かったのですが、どこかでお会いしたことがあると思ったら、

4年程前、まだ私がナントに居た頃、パリに落語を見に行った時の、「やけにはっぴの似合う」すばらしい通訳をされた、その人だったのです。

後で「先生、パリで落語の司会やっていましたね、はっぴ着て!!」と聴いたら「そうそう、君、見に来てたの!」と驚かれていました。

こんなところで再会するとは、何かの縁ですなぁ。

あの時と変わらない、テンポのいいしゃべり口(もちろん日本語でプレゼンをされていました)のおかげで、長時間に及ぶシンポジウムのトリの発表だったにもかかわらず、会場の疲れはどこかに飛んでしまいました。


フランス人の前でフランス語や英語でプレゼンをするという修行を何度かやらされて来た私は、毎度「私の言葉は通じるだろうか?発音はおかしくないだろうか?」という恐怖に動転し、発表前にトイレの個室に篭ってヨーガの木のポーズをやったりしたものですが、今回全く逆の立場に居ることができて大きな収穫がありました。

ちょっと活用がおかしかったり、流暢でなかったり、言葉を度忘れしたりしても、発表者が「伝えよう」という気持ちや「楽しさ、喜び」を忘れなければ問題なしなんです。要は心意気。



「で、君はここの学生なの?」

と、先生に聞かれ、なぜか私は小さな声で「イエ、4月からフランス語を教えるんです」と答えると、「それじゃあ、パリに来ることがあったら遊びにいらっしゃい」と名刺(を切らしたのでコピーだったけれど)を渡して下さいました。あんまり気さくなんで、「こんちはー、遊びに来ました!」とオフィスを訪問するシーンを思い浮かべてしまいました。


それにしても、今後、幾度も「イエ、私は学生ではなくて、先生のほうなんですけど・・・」と言うことになりそうな予感がします。

なんとなく、まだ自分自身が様々な肩書きに翻弄されてばらばらになっているような、「déchiré(引き裂かれた)」気分で落ち着かないのです・・・
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2010年03月06日(土) 00:34 by まり [ Edit ]
麹アイス 麹アイス日和。



「本日はお日柄もよく。」

アイスが食べたくなるほどです。


なので、朝のアトリエが終わった後、古町麹製作所のアイスをおやつに買うことに。ここ、一度試してみようと思いながら指をくわえて前を通り過ぎること数え切れなかったのですが、やっと念願叶いました。


白い麹のやさしい味がするアイスで、ほんわかしました。前々から麹は気になるやつでして、麹酵母を作ってパンを焼きたいと思って1年が経ちます・・・自分自身の管理もままならない今の状態で、酵母の面倒を見る勇気がわかず、干し葡萄から遠ざかってあっという間に1年。狂ったように酵母ちゃんと格闘していたあの日々はなんだったのだろう。

暇だったのだろう。単に。


なんだか、周りに影響されて「創作」がしたいなぁとうずうずしているのですが、フランス語の授業を作る以外の創作で何かやれるものを探している状態。いや、やりたいことはぼや〜っとあるのですがね・・・



今日のクローズアップ現代は「言語力」をテーマにしていました。
「筋道立てて考えて、それを言葉にして相手に伝える」という力が不足している。なぜなのか、どうすればいいのか?という話。


ecorでは、「どう感じますか?」「どう思いますか?」「どうしてですか?」という質問をよくします。文法ひとつ取っても、ここが間違っている、と、いきなり指摘をしないで、できるだけ「どこかがおかしいです。どこでしょう?どうしたらいいでしょう?」と謎解きをギリギリまで自分でやって頂くように気をつけています。人によってはイラっと来るかもしれませんが、そこはしれっと気づかない振りをしつつ・・・


これは、私の師匠軍団のひとり、K先生の

「(フランス語のあらゆる)間違いは、『ま、いっか』というところに現れる」という言葉にヒントを得たもの。

外国語学習というのは、「終わりなき自己点検」とも言える作業で、書いたりしゃべったりしながら同時に文法・スペル・修辞のチェックをし続けることで成り立っています。この点検作業を途中で投げ出して、「ま、いいや」と思った瞬間に間違いが露呈する。

レベルが低いうちは、一言発する前に10考えなければならずへとへとになるのですが、レベルが上がれば上がるほどそれが無意識下で自動的にできるようになるので楽になるのです。だからこそ、普段から自分で間違いを見つけられるように慣れておくことが必要なので、自力で訂正できるように地道に「まちがいさがし」をやってもらっています。


模擬面接で、消防士志望の男の子が、それまで志望動機などを覚えてきた通りロボットよろしくぺらぺら話していたところ、突然、自分の出身地を紹介してくださいと試験官に言われて完全にフリーズしてしまう、というシーンが先の番組の冒頭にありました。


日本人特有だなぁ・・・


コメンテーターの鳥飼玖美子さんが、そういう時は「考えてもみなかった質問で、少々驚いて考えが上手くまとまるかどうかわかりませんが・・・」などと、言葉をつないで埋めながらその間に何か考えなさいとアドバイスしていましたが、これは彼女のように欧米語が堪能な人ならではの意見でしょう。

フランスでは、一般的に相手が居るのに沈黙するのは失礼に当たる行為となります。

「Le silence est d'or (沈黙は金)」という言葉は、フランス語にもありますが、実はその前に付くのが

La parole est d'argent (言葉は銀)

なのです。つまり、話術を持っているのに越したことはない、という前提での沈黙は英知を表すことができる。
空っぽの沈黙を奨励しているわけではないし、まして言いたいことがあるのに黙っているのは卑怯かアホか、どちらにしろ人並みの気遣いのできぬ奴という評価を与えられてしまいます。※追記参照↓

だから、フランス人はいちいち自分がやっていることを口に出して解説したりするのだ、と納得がいってからは、授業中に先生が「今私は今朝このカバンに用意したはずの皆さんに配る資料を探しています」といいながら自分のバッグの中に顔を突っ込んでがさごそしているのを見たりしても、「見つかるといいね」と思えるし、

電話の向こうで電話会社のオペレーターが「今あなたの名前をキーボードで打っていますよ〜」と言うのを聞いても、「ごちゃごちゃ言っとらんで、早いこと私の顧客名簿を見つけてさっさと処理してくれ!」と腹が立ったりしなくなりました。

いい見方をすれば、常にエンターテナーであれ、という芸人魂のようなものがフランス人DNAには刷り込まれているのかもしれません。

文化が違うと沈黙のスタンスも変わってくるんですね。


とはいいつつ・・・日本人が昔から推奨する「不言実行」ってのは案外嫌いではなくて、誰の意見でも偏見なくじっくり聞き、沈黙の中からさっと解決に立ち上がる人というのは金色に輝いて見えたりします。

私なんか、すぐ「あれってこうじゃない?」「あ、でもこうも考えられるかもね」などとぴょいぴょい口から思ったことが飛び出てしまい、回転が速すぎてカラカラ空回って、人が話していることを注意深く聞いていなかったり、自分の思いつきに夢中になって上の空になっていたり、白い麹のような味わいが出るには、まだまだ修行がたりませ
ん。


.........................
追記。

「沈黙は金、言葉は銀」について。

昔は金より銀の価値の方が高かった、という説があるそうです。それを考慮すると、やっぱり黙っているよりきちんと話すことの方がベターだと考えられていたのかもしれません。
ただ、このことわざがいつできたのかによってはコンテクストが逆転する可能性も。
いずれにせよ、フランスでは黙っているのは卑怯者、というイメージがありますね。
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2009年11月25日(水) 23:08 by まり [ Edit ]
laisser pousser 最近、更新がことごとく滞っていることへの言い訳。



マニュスクリへの固執。

手で書きたいのです。おもむろに(「おもむろに」、というところがポイント)、鞄からレターパッドを取り出して、ごそごそボールペンも見つけ出して、書くわけです。

今、わたしの中でこの一連の動作が流行っているのです。相変わらず、ル・クレジオを読んでいるから、その影響なのだと思う。

それで、時々、飽きて、逆さまから手紙を書いたりしたいわけだ。
「春が到来をずるずると引き延ばしています。どうぞ寒さにお気をつけて」
とかなんとかいうところから始めるんです。

「逆さま」というのは、私をとても惹きつける概念です。

パソコンのキーボードばかりたたいて文章を作っていると、たまに、全てうそみたいに見えてくる。
そして、手書きだと、きまって信じられない間違いをして無駄に紙を使う。それが妙にリアルに見える。
気がつけば、「待まって」とか「とごろで」とか、どこをどうしたら生まれるのか、生みの親にもわからないシュールな書き損じがテーブルにあふれている。

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翻訳の仕方には色々あって、私のようなキャリアもない、しろうとに毛が生えたようなものがごちゃごちゃ言うのも気が引けるのだけれど、生まれたものは一旦「置いておく」という必要があると思う。

もちろん、もっと適切な言い回しが見つかるとか、推敲の意味で「保存期間」というのは必要なのだけれど、それよりも、単純ミスを発見するための、訳者の脳サイドの「冷却期間」と言っていい。

訳す時にはかなりミオップ(近視)になっていて、単純な時制の訳ミスに気づかなかったりする。話者によっては本当に難解な言い回しをする人もいるので、意味の取り違えに気がつかなかったりというのもある。
冷静になった時に見れば一目瞭然だったりするのに、訳しているときには、色眼鏡をかけているように、不思議と見えない。「部屋の片隅にピンク色の象がいるのに気がつかない」みたいなものです。

この視覚・言語的麻痺状態は、フランス語でレポートや小論文なんかを提出する時に気づいて、それ以来仕事は締め切りより少なくとも1日前には終わらせるように心がけているのですが・・・もともと尻に火がつかないタイプなので、なかなか難しいわけです。

(...)そしてそのあとに作品を一定期間寝かせるという時期(いわゆる養生期間)が必要になってくる。作品を手から離し、しばらく一人にしておいて、そのあいだに自由に息をさせるわけだ。僕は思うのだけれど、長編作家にとって大事な資質のひとつは、どれだけじっと我慢して作品を寝かせられるかということであるまいか。そこで急ぐと、作品の自立的な呼吸は十分でなくなり、酸欠状態になってしまいかねない。

村上春樹 「ねじまき鳥クロニクル」解題より

また村上春樹を引き合いに出して申し訳ないのですが、「クリエーション」というレベル云々は別として、根本的な考え方は一緒だと思ったので抜粋しました。生み出した後の作品をどのように捉えるかで、プロかどうかというのがわかるんですね。

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新潟・フランス協会の編集委員会が文字通り「若返って」、そのチームプロジェクトとしての有能さに畏怖すら感じます(笑)。
こういう人たちが編集に付いてくれれば、作家も助かるわな、と思います。その辣腕さで、連載「ナントところどころ」の締め切りもきちりと抑えられるところに、私なんかは「畏」も「怖」も感じたりもするわけです。今のところ、締め切りは破っていません。
(連載は協会HPの会報PDFで読むことが出来ます。読み込みに多少時間がかかる場合があります)
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2009年03月22日(日) 12:20 by まり [ Edit ]
fraicheur emballee éreintée...


新年明けて、早くもへとへとです。
飲み会でなく帰宅9時過ぎの日がすでに3日・・・

エヴリンの公式歓迎パーティーが、帰国2日前の本日行われました。
明日は非公式お別れ会。

よく胃もたれも、人もたれ(?)もせず過ごせるもんだ。世界を回るジャーナリストは胃が強くなければならないのかも。

ところで、通訳していてある方が、北方博物館の8代目伊藤館長をどう思うかと彼女に聞いた。
その時の答えが

「Je suis emballée.」

emballerとは通常は荷物をくくるとか、荷造りするというような意味の動詞として使われるのですが、再帰動詞として「s'emballer」だと「夢中になる、興奮する」という言い回しになるのです。

こういった再帰動詞は過去分詞(emballé)の形にして、êtreと共に受動態で表現しても、同じような意味の文章を作ることができます。「私は括られた」という言い方で、「すごい夢中になった、引き込まれた!」になるのです。

通訳の役得は、ひょっと出てくるこういった生の表現をこっそり模写することができるところにあります。どっかで早速使ってやろう。

あ〜がっつり文法の勉強がしたくなった。(←フランス語おたくごころ)

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2009年01月08日(木) 00:52 by まり [ Edit ]

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